2017年05月11日

Vol.5 過度な農業化 〜農業の歴史、農薬・化学肥料の発明〜

1.思いの外豊かな狩猟採集民の生活

農業による食料生産が圧倒的な量産を行うようになった現在でも、人類が数百万年もの間続けてきた「自然の動植物をとる」という狩猟採集生活をおくる人々は存在しています。

私たちはともすればそういう人々のことを貧しい、あるいは未開の人たちと決めつけがちですが、人類学者の研究により、その実態は全く違ったものであることが明らかになってきたのです。

狩猟採集民は、20〜50人ほどの集団で暮らし、年に数回移動します。
男性は動物をとらえる狩猟を、女性は植物を集める採集を担当し、植物が育たない北極地方など特殊な環境を除けば、ふつうは女性の仕事である採集のほうに大きな比重がおかれています。

モンゴンゴの木モンゴンゴの木
アフリカ南部に住むサン(ブッシュマン)という狩猟採集民は、栄養価の高い(コメの5倍)モンゴンゴの木 (上図)が主食であり、その他数十種の植物を食しています。

女性が主に行う採集作業は、毎日1〜3時間。
これに対して、狩りを行う男性は1週間狩りをして帰ってくると、2〜3週間はなにもしないそうです。
平均して、集団内の4割の人は食料調達の仕事をしていませんが、食料は全員に分けられます。
それでも必要な栄養量はゆうに上回り、栄養不足はみられません。

つまり、狩猟民族の暮らしは、決して貧しくもなく、辛くもなく、「農耕する」必要が無いのだということができます。

しかも、2009年にブッシュマンの食生活を調査した京都大学の田中二郎博士によると、ブッシュマンの食事内容は、植物と動物のカロリー摂取割合が5.7:1と植物食が圧倒しているのがわかるということです。(100分率に直すと動物食は15%)



2.農耕の開始

この例は、狩猟採集民が進歩から取り残された人々だという固定観念をくつがえすものだといえます。
繰り返しになりますが、彼らが農耕を行わないのは必要がないからです。

実際、農耕はきつい長時間の労働を必要とする上に、得られる植物は限定的で、狩猟採集生活のバリエーションに富んだ植物の数と比べると、栄養的には非常に劣っています。

それでも、農耕が世界中に広がっていったのはなぜでしょうか?

1万年ほど前氷期が終わり、気候が温暖になると地球上の人の数(人口)は急増して400万人に達したといわれています。
現在からすれば比較にならないほど少ないですが、狩猟採集で支えられる人口の上限だったはずです。
狩猟・採集は広い土地を必要とし、人口増加には決定的に弱い生活様式だったのです。

実際、狩猟採集民の人口密度は、タスマニア島(オーストラリア)では、10km四方(100平方キロメートル)に3.8人、ネバダ平原(アメリカ)では1人ときわめて低いです。
狩猟採集生活を続けるためには一人当たり、広い面積の豊かな土地が必要であるということです。

人口が多くなる、あるいは、季節によって食べものが探せなくなるような地方では、食糧確保のためになんらかの努力をしなければならなかったと考えられるわけです。

狩猟採集民も、ただ闇雲に食料を探しまわっているのではありません。
継続的に食料を確保するためにさまざまな工夫をします。
たとえば、食べることができる植物が豊かに実るために成長を阻害する雑草を取り除いたり、経験的に山火事の後では実りが多いことを知って、森を焼いてみたりもしたでしょう。
動物の死骸を埋めたところでは大きな実が実ったり、葉が豊かに茂ったりということにも気づいていたはずで、人為的にこのような状態を作ろうとしたかもしれません。
つまり、農耕に至り、種をまくことをはじめる前から、実生の木々を保護する、例えば、
@動物の食害から守るために垣根をしたり、
A日照りになった時に水を運んできてやったり、
Bもっと自然条件の良い場所に植え替えたり
@〜Bのいわゆる「半栽培」を行っていたはずです。

つまり、農耕は、狩猟採集生活と密着して始まったということです。食べることができる植物のあるがままをよく観察し、より効果的に食べることができる工夫を行った、この工夫こそが初期の農耕の体系です。


奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡
縄文時代の「半栽培」ものと確認されたクリの切り株=08年11月、奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡




3.農耕から農業へ

もっと土地を効率的に利用し、食料をたくさん得ようとすれば、土地をまっさらにして耕し、食べたいから植えたい植物の種類を選ぶだけではなく、その土地に適した植物を選んで育てるという形でなければなりません。
この工夫は、自然環境を人工的な環境におきかえる本格的な農耕、つまり農業に発展していきます。

狩猟採集と農耕のあいだにはっきりした境界線があるわけではなく、増えていく人口に対応して少しずつ環境への介入を強め、長い年月(おそらく数千年単位の)をへて、人為的に植物を育てる農耕に移行したのでしょう。
農耕は、「効率的な土地利用」という点で非常に優れています。
ハードな労働が必要な分、狭い土地で多くの食料が確保でき、多くの人々を養うことができます。
農耕が行われている地域の人口密度は、狩猟・採集の行われる地域の20〜100倍に達します。

こうなると、人はもはや狩猟・採集には戻れません。こうして農耕が定着し、広がっていくと、農耕は大規模化し、多くの人の協力が必要になります。そして、一年を計画的に植物の栽培に使うという目的が一致する社会構成団体ができます。農業はこうして生まれた社会構造とも言えます。



4.穀物農耕と根栽農耕、おもな農作物の起源

栽培植物と農耕の起源

かつては、ヒトの起源が東アフリカにフォーカスされていたように、農耕の起源も、西アジアが一大拠点であって、ここから全世界に伝わっていったと考えられていました。

しかし、現在は、世界のいくつかの地域に農耕の発祥地を想定するのが一般的だと言われています。そもそも育てることのできる植物は環境によって異なるので、一箇所から全世界へと伝播されようがないわけです。

農耕は、茎や根から増やす根裁農耕と、種子から育てる穀物農耕とに分けることができます。

根裁農耕は、バナナ、タロイモ、ヤムイモ、キャッサバなどが代表的な作物で、熱帯地方に適した農法であり、1万年以上前に東南アジアで始まりました。イモ類は傷みやすいため保存・運搬にむかず、必要に応じて食べる分だけ栽培されます。

それに対し、穀物農耕は、収穫時期は限定されますが、種子である穀物は深く眠ることが可能ですから長期間の貯蔵ができ、遠くへの運搬も可能です。穀物の蓄積が大きな人口を養うベースとなり、大きな社会が生まれました。大きな社会の中でまた、農耕も体系化がさらに進み、栽培できる植物の数も収穫量も増えていったのです。
5.野生植物から作物へ

農業はこうしてゆるやかに発展していきました。

人類は、同種類の植物が全て同じ形質を持っているわけではないことに気づきます。
他に比べて大きく育つ、おいしい、粉にしやすい、貯蔵に堪えるなど・・の形質は個体に差異がありました。同じ種類の植物の中から、条件の良い物を選んで種をとり、育てることが始まりました。育種の始まりです。
こうして、野生植物は、形質の転換が進み、現在の栽培種=作物へと変身を遂げていったのです。

やがて、効率のよい農機具も発明されていきます。
青銅器時代や鉄器時代、これらは、武器としての貢献よりも農機具としての貢献のほうが主流なのです。
西暦800年〜1400年にかけて、農機具は基本的に変わることはなかったのです。
メイフラワー号で新大陸に移住した人たちが初めて使用した農具はローマ帝国で使われていた「鋤(すき)」であり、改良の一つもされていませんでした。



6.農業における革命

世界第一号の播種機世界第一号の播種機18〜19世紀頃になると農業技術の革命が爆発的に起こりました。
ジェスロ・タルというイギリス人が世界第一号の播種機(条播をきれいに素早く行う農具)を発明し、続いて、サイラス・マコーミックの刈り取り機など、馬が牽引する収穫農具も発明されました。
これらの機械は同じ時間で数倍の作業をすることを可能にしていきました。



7.増える人口を支えるための生産性の重視

もともと、農耕自体がたくさんの人口を食べさせる、飢えないための工夫であるとすれば、文明の発展により大規模化した社会を支える食糧は、その品質よりも生産性が重視されるようになる素因を最初から含んでいたといえます。

生産性を上げるための工夫は、「より自然を観察し、自然に寄り添う形でおいしくて栄養価値が高いものをもっとたくさん生産して、貯蔵しておく」という当初の目標をさらに上回り、
222222.jpg
@もっと広い土地にたくさん植える
A農耕労働を軽減するための農具を発明する
Bより良い種子を選んで掛け合わせより良い種子を作り出す
という手段を超えて、
C大きくおいしくなるための肥料を工夫する、
D他の動物や生き物、虫や微生物にかじられない(一部を利用されない)ために、それらに対抗し、忌避できる「薬」を撒く
という領域に入っていきました。

生産性を重視して使われる「肥料」や「農薬」は自然環境を撹乱していきます。
もともと、農耕自体がありのままの自然に人為的な工夫を加えるものですから、撹乱の最初の一歩だったわけです。



8.農薬と肥料の登場

初期には、作物について食害をもたらす虫や目に見えない細菌類を死滅させる、あるいは忌避するために使われたのは、同じく植物から取り出した成分でした。唐辛子を加えて発酵させたものや、杉の若枝を燃やした煙を利用したり、毒の成分が含まれる植物の抽出液を薄めて利用したりというような工夫がなされました。

大きく育てるための肥料も同じく動植物から取り出せるものばかりで、特に糞やし尿も多く使われました。(現在ではこれらの使用は充分に発酵させてから使わなければ反対に不利益が伴うこともわかっています)



農林省HPより抜粋  農薬とはより (4)農薬の歴史
日本では、その昔、いわゆる「虫追い」、「虫送り」といって、農家がみんなで太鼓、半鐘、たいまつ等をもち、声を出しながら田んぼのまわりを歩き、稲に付く虫を追い払ったといわれています。
江戸時代には鯨からとった油を水田に撒き、稲に付いている害虫を払い落とす方法が発明され、昭和の初期まで続けられました。
また、戦前には除虫菊(蚊取り線香と同じ成分)、硫酸ニコチン(タバコから)などを用いた殺虫剤、銅、石灰硫黄などの殺菌剤など天然物由来の農薬が使われていました。しかし、雑草に対しては手取りによる除草が中心で、戦後、除草剤が開発されるまで続けられました。
炎天下のこの作業は大変な重労働でした。
戦後、科学技術の進歩により化学合成農薬が登場し、収穫量の増大や農作業の効率化につながりました。
図1は、水稲における総労働時間と除草時間の変化を表したものです。
除草時間の場合、1949年では除草時間10アール当たり50時間であったものが、1999年では約2時間/10アールとなり、除草剤を使用することで除草作業は効率的に行えるようになりました。
これらの農薬の中には、人に対する毒性が強く、農薬使用中の事故が多発したもの、農作物に残留する性質(作物残留性)が高いもの、土壌への残留性が高いものなどがあったため、このことが昭和40年代に社会問題となりました(図2)。
水稲作業の労働時間の推移農薬使用中の事故
このため、昭和46年に農薬取締法を改正し、目的規定に「国民の健康の保護」と「国民の生活環境の保全」を位置付けるとともに、農薬の登録の際に、登録申請を行う農薬製造業者や輸入業者は、農薬のほ乳類に対する急性毒性試験成績書及び慢性毒性試験成績書、農作物及び土壌において残留する性質に関する試験成績書を新たに提出することとなりました。
その結果、これまで使用されてきたBHC、DDT、ドリン剤などの残留性が高く、人に対する毒性が強い農薬の販売禁止や制限がなされました。この頃から農薬の開発方向は、人に対する毒性が弱く、残留性の低いものへと移行していきました(図3)。
また、近年は生物由来の農薬も開発され普及が進んでいます。




9.生産性の重視の成れの果てが利益重視の農業

発達する文明社会の中で、人口を養うために生じた増産の必要性は、個人が利益を蓄積する手段となっていきました。
貯蔵できる食物の量が大きな単位の社会を産むと、人々の中に生産性自体を「持つ」、または、「持たない」の格差が生まれ、ヒエラルキー(社会階級)が出現し、大きな力の差を生み出しました。

力を持つために生産性を上げ、あるいは生産を独り占めにすることによって手に入れた多くの生産物は「お金」にかわっていきます。お金は腐ることもなく、嵩(かさ)を極限まで小さくできる貯蔵物です。
増産されても生産物は、人口全員が豊かに食べることができる余裕を確保することよりも、誰か強い、個人の力の蓄積に使われるようになったのです。まさしく、そういう社会の中に私たちは今生きているわけです。

生産性を重視して使用される農薬や化学肥料は、今や、不自然に抽出・合成された人工的化学物質です。
自然環境を汚し、そこに住む人類全員の健やかな繁殖と自分の命を生きる幸せを奪っています。



資料:農薬や化学肥料が必要となる人為的環境(by山本朝子)

栄養価が高く品種改良を行った野菜という植物はすべて、昆虫や線虫、細菌たちにとっても高栄養である。
発酵していない有機肥料(腐敗のレベル)を使うと、腐敗を好む別の種類の昆虫や線虫、細菌も寄ってくる。
例えば、広大な畑でキャベツだけを栽培するなど、効率よく栽培・収穫・換金化できることを重視した「単一栽培(モノカルチャー)」では、天敵が入り乱れて調和を保っている野生の植生とは違い、一種類の害虫が繁殖しやすく、細菌感染による病気も発生しやすい。(これに対応するためにコンパニオンプランツという概念での「植え合わせ農法」も重視されるべきである)
1〜3のような理由で必要となる「人工的化学物質由来の農薬」は、害虫ばかりか、天敵となる昆虫も死なせてしまう。
農薬の多用により、土壌菌も死滅し、土は全く栄養分を保てなくなり、化学肥料を使わざるを得ない状況が生まれる。化学肥料の多投は、土壌の水分保持能力まで失わせ、やがて不毛の地となる。




10.これからの人類が向かうべき目標

もともと農耕は、自然を撹乱する要素をはらんでいたと既述しました。それならば、極力自然を傷つけないように生産性を上げる工夫すればよいのです。

日本では20世紀になってからようやく、『有機農業』がその価値を叫ばれ出しました。1971年に農協役員の一楽照雄(1906年 - 1994年)が、経済の領域を超えた大きな価値を有する、豊かな地力と多様な生態系に支えられた土壌から生み出されたあるべき農業のあり方を考案し、それを有機農業と呼んだことが始まりです。

科学用語としての有機は、有機化合物のことを示します。これは化学肥料が無機質だったことと対照的に、伝統的な肥料の多くが有機質だったことから、象徴的に有機という単語が用いられたのですが、したがって有機農業を省略して有機としてしまうと、科学的な意味が通じなくなる場合があるので注意が必要です。有機物を使えば、有機農業になるのではなく、自然の仕組みの中の有機=命あるものすべてを共存させる農業の形態を私たちは選ばなければなりません。

利益を優先させる農業の形態の中に、金銭の存在はあっても、有機の(命あるもの)存在は望めません。



11.最後に 「穀物が受けた人為的改良」

人々はその昔、自分が食べるため、家族が食べるため、仲間が食べるためにと最大限に努力して
「@たくさん、A間違いなく手堅く栽培でき、Bいざという時のために貯蔵できる作物」
を目指してきました。
特に、穀物は、Bには最適です。深く眠り、何世代も保存可能、水と光と酸素があればいつでも蘇ります。
また、穀物自体がいのちそのものですから、栄養に富んでいるのは言うまでもありません。
その上に加熱という加工手段を受け入れるにはピッタリ、熱損傷の少ない栄養源だったからです。
穀物はそれ故に、様々な人工的な『作り変え』と『特異な過栄養状態』に変貌していきました。

有るがままの自然を食べ尽くす狩猟採集生活とはかけ離れた食べものになった彼ら「穀物」は、現代社会では、過栄養提供者、人工毒の蓄積物として、食べないでおきましょうなどという不名誉なことまで言われるようになってしまいました。

物言わぬ植物たち、人間が生んだ穀類、人為的改良を静かに受け入れてきたものたちは、自然回帰、きっと懐かしいDNAがかすかに記憶する原始の姿に戻りたいと願っているような気がしてなりません。
有機農業はまさしく、その答えを知っていると思うのです。


posted by グレイニスト at 15:24| グルテンフリーの真実