2017年05月11日

Vol.5 過度な農業化 〜農業の歴史、農薬・化学肥料の発明〜

1.思いの外豊かな狩猟採集民の生活

農業による食料生産が圧倒的な量産を行うようになった現在でも、人類が数百万年もの間続けてきた「自然の動植物をとる」という狩猟採集生活をおくる人々は存在しています。

私たちはともすればそういう人々のことを貧しい、あるいは未開の人たちと決めつけがちですが、人類学者の研究により、その実態は全く違ったものであることが明らかになってきたのです。

狩猟採集民は、20〜50人ほどの集団で暮らし、年に数回移動します。
男性は動物をとらえる狩猟を、女性は植物を集める採集を担当し、植物が育たない北極地方など特殊な環境を除けば、ふつうは女性の仕事である採集のほうに大きな比重がおかれています。

モンゴンゴの木モンゴンゴの木
アフリカ南部に住むサン(ブッシュマン)という狩猟採集民は、栄養価の高い(コメの5倍)モンゴンゴの木 (上図)が主食であり、その他数十種の植物を食しています。

女性が主に行う採集作業は、毎日1〜3時間。
これに対して、狩りを行う男性は1週間狩りをして帰ってくると、2〜3週間はなにもしないそうです。
平均して、集団内の4割の人は食料調達の仕事をしていませんが、食料は全員に分けられます。
それでも必要な栄養量はゆうに上回り、栄養不足はみられません。

つまり、狩猟民族の暮らしは、決して貧しくもなく、辛くもなく、「農耕する」必要が無いのだということができます。

しかも、2009年にブッシュマンの食生活を調査した京都大学の田中二郎博士によると、ブッシュマンの食事内容は、植物と動物のカロリー摂取割合が5.7:1と植物食が圧倒しているのがわかるということです。(100分率に直すと動物食は15%)



2.農耕の開始

この例は、狩猟採集民が進歩から取り残された人々だという固定観念をくつがえすものだといえます。
繰り返しになりますが、彼らが農耕を行わないのは必要がないからです。

実際、農耕はきつい長時間の労働を必要とする上に、得られる植物は限定的で、狩猟採集生活のバリエーションに富んだ植物の数と比べると、栄養的には非常に劣っています。

それでも、農耕が世界中に広がっていったのはなぜでしょうか?

1万年ほど前氷期が終わり、気候が温暖になると地球上の人の数(人口)は急増して400万人に達したといわれています。
現在からすれば比較にならないほど少ないですが、狩猟採集で支えられる人口の上限だったはずです。
狩猟・採集は広い土地を必要とし、人口増加には決定的に弱い生活様式だったのです。

実際、狩猟採集民の人口密度は、タスマニア島(オーストラリア)では、10km四方(100平方キロメートル)に3.8人、ネバダ平原(アメリカ)では1人ときわめて低いです。
狩猟採集生活を続けるためには一人当たり、広い面積の豊かな土地が必要であるということです。

人口が多くなる、あるいは、季節によって食べものが探せなくなるような地方では、食糧確保のためになんらかの努力をしなければならなかったと考えられるわけです。

狩猟採集民も、ただ闇雲に食料を探しまわっているのではありません。
継続的に食料を確保するためにさまざまな工夫をします。
たとえば、食べることができる植物が豊かに実るために成長を阻害する雑草を取り除いたり、経験的に山火事の後では実りが多いことを知って、森を焼いてみたりもしたでしょう。
動物の死骸を埋めたところでは大きな実が実ったり、葉が豊かに茂ったりということにも気づいていたはずで、人為的にこのような状態を作ろうとしたかもしれません。
つまり、農耕に至り、種をまくことをはじめる前から、実生の木々を保護する、例えば、
@動物の食害から守るために垣根をしたり、
A日照りになった時に水を運んできてやったり、
Bもっと自然条件の良い場所に植え替えたり
@〜Bのいわゆる「半栽培」を行っていたはずです。

つまり、農耕は、狩猟採集生活と密着して始まったということです。食べることができる植物のあるがままをよく観察し、より効果的に食べることができる工夫を行った、この工夫こそが初期の農耕の体系です。


奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡
縄文時代の「半栽培」ものと確認されたクリの切り株=08年11月、奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡




3.農耕から農業へ

もっと土地を効率的に利用し、食料をたくさん得ようとすれば、土地をまっさらにして耕し、食べたいから植えたい植物の種類を選ぶだけではなく、その土地に適した植物を選んで育てるという形でなければなりません。
この工夫は、自然環境を人工的な環境におきかえる本格的な農耕、つまり農業に発展していきます。

狩猟採集と農耕のあいだにはっきりした境界線があるわけではなく、増えていく人口に対応して少しずつ環境への介入を強め、長い年月(おそらく数千年単位の)をへて、人為的に植物を育てる農耕に移行したのでしょう。
農耕は、「効率的な土地利用」という点で非常に優れています。
ハードな労働が必要な分、狭い土地で多くの食料が確保でき、多くの人々を養うことができます。
農耕が行われている地域の人口密度は、狩猟・採集の行われる地域の20〜100倍に達します。

こうなると、人はもはや狩猟・採集には戻れません。こうして農耕が定着し、広がっていくと、農耕は大規模化し、多くの人の協力が必要になります。そして、一年を計画的に植物の栽培に使うという目的が一致する社会構成団体ができます。農業はこうして生まれた社会構造とも言えます。



4.穀物農耕と根栽農耕、おもな農作物の起源

栽培植物と農耕の起源

かつては、ヒトの起源が東アフリカにフォーカスされていたように、農耕の起源も、西アジアが一大拠点であって、ここから全世界に伝わっていったと考えられていました。

しかし、現在は、世界のいくつかの地域に農耕の発祥地を想定するのが一般的だと言われています。そもそも育てることのできる植物は環境によって異なるので、一箇所から全世界へと伝播されようがないわけです。

農耕は、茎や根から増やす根裁農耕と、種子から育てる穀物農耕とに分けることができます。

根裁農耕は、バナナ、タロイモ、ヤムイモ、キャッサバなどが代表的な作物で、熱帯地方に適した農法であり、1万年以上前に東南アジアで始まりました。イモ類は傷みやすいため保存・運搬にむかず、必要に応じて食べる分だけ栽培されます。

それに対し、穀物農耕は、収穫時期は限定されますが、種子である穀物は深く眠ることが可能ですから長期間の貯蔵ができ、遠くへの運搬も可能です。穀物の蓄積が大きな人口を養うベースとなり、大きな社会が生まれました。大きな社会の中でまた、農耕も体系化がさらに進み、栽培できる植物の数も収穫量も増えていったのです。
5.野生植物から作物へ

農業はこうしてゆるやかに発展していきました。

人類は、同種類の植物が全て同じ形質を持っているわけではないことに気づきます。
他に比べて大きく育つ、おいしい、粉にしやすい、貯蔵に堪えるなど・・の形質は個体に差異がありました。同じ種類の植物の中から、条件の良い物を選んで種をとり、育てることが始まりました。育種の始まりです。
こうして、野生植物は、形質の転換が進み、現在の栽培種=作物へと変身を遂げていったのです。

やがて、効率のよい農機具も発明されていきます。
青銅器時代や鉄器時代、これらは、武器としての貢献よりも農機具としての貢献のほうが主流なのです。
西暦800年〜1400年にかけて、農機具は基本的に変わることはなかったのです。
メイフラワー号で新大陸に移住した人たちが初めて使用した農具はローマ帝国で使われていた「鋤(すき)」であり、改良の一つもされていませんでした。



6.農業における革命

世界第一号の播種機世界第一号の播種機18〜19世紀頃になると農業技術の革命が爆発的に起こりました。
ジェスロ・タルというイギリス人が世界第一号の播種機(条播をきれいに素早く行う農具)を発明し、続いて、サイラス・マコーミックの刈り取り機など、馬が牽引する収穫農具も発明されました。
これらの機械は同じ時間で数倍の作業をすることを可能にしていきました。



7.増える人口を支えるための生産性の重視

もともと、農耕自体がたくさんの人口を食べさせる、飢えないための工夫であるとすれば、文明の発展により大規模化した社会を支える食糧は、その品質よりも生産性が重視されるようになる素因を最初から含んでいたといえます。

生産性を上げるための工夫は、「より自然を観察し、自然に寄り添う形でおいしくて栄養価値が高いものをもっとたくさん生産して、貯蔵しておく」という当初の目標をさらに上回り、
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@もっと広い土地にたくさん植える
A農耕労働を軽減するための農具を発明する
Bより良い種子を選んで掛け合わせより良い種子を作り出す
という手段を超えて、
C大きくおいしくなるための肥料を工夫する、
D他の動物や生き物、虫や微生物にかじられない(一部を利用されない)ために、それらに対抗し、忌避できる「薬」を撒く
という領域に入っていきました。

生産性を重視して使われる「肥料」や「農薬」は自然環境を撹乱していきます。
もともと、農耕自体がありのままの自然に人為的な工夫を加えるものですから、撹乱の最初の一歩だったわけです。



8.農薬と肥料の登場

初期には、作物について食害をもたらす虫や目に見えない細菌類を死滅させる、あるいは忌避するために使われたのは、同じく植物から取り出した成分でした。唐辛子を加えて発酵させたものや、杉の若枝を燃やした煙を利用したり、毒の成分が含まれる植物の抽出液を薄めて利用したりというような工夫がなされました。

大きく育てるための肥料も同じく動植物から取り出せるものばかりで、特に糞やし尿も多く使われました。(現在ではこれらの使用は充分に発酵させてから使わなければ反対に不利益が伴うこともわかっています)



農林省HPより抜粋  農薬とはより (4)農薬の歴史
日本では、その昔、いわゆる「虫追い」、「虫送り」といって、農家がみんなで太鼓、半鐘、たいまつ等をもち、声を出しながら田んぼのまわりを歩き、稲に付く虫を追い払ったといわれています。
江戸時代には鯨からとった油を水田に撒き、稲に付いている害虫を払い落とす方法が発明され、昭和の初期まで続けられました。
また、戦前には除虫菊(蚊取り線香と同じ成分)、硫酸ニコチン(タバコから)などを用いた殺虫剤、銅、石灰硫黄などの殺菌剤など天然物由来の農薬が使われていました。しかし、雑草に対しては手取りによる除草が中心で、戦後、除草剤が開発されるまで続けられました。
炎天下のこの作業は大変な重労働でした。
戦後、科学技術の進歩により化学合成農薬が登場し、収穫量の増大や農作業の効率化につながりました。
図1は、水稲における総労働時間と除草時間の変化を表したものです。
除草時間の場合、1949年では除草時間10アール当たり50時間であったものが、1999年では約2時間/10アールとなり、除草剤を使用することで除草作業は効率的に行えるようになりました。
これらの農薬の中には、人に対する毒性が強く、農薬使用中の事故が多発したもの、農作物に残留する性質(作物残留性)が高いもの、土壌への残留性が高いものなどがあったため、このことが昭和40年代に社会問題となりました(図2)。
水稲作業の労働時間の推移農薬使用中の事故
このため、昭和46年に農薬取締法を改正し、目的規定に「国民の健康の保護」と「国民の生活環境の保全」を位置付けるとともに、農薬の登録の際に、登録申請を行う農薬製造業者や輸入業者は、農薬のほ乳類に対する急性毒性試験成績書及び慢性毒性試験成績書、農作物及び土壌において残留する性質に関する試験成績書を新たに提出することとなりました。
その結果、これまで使用されてきたBHC、DDT、ドリン剤などの残留性が高く、人に対する毒性が強い農薬の販売禁止や制限がなされました。この頃から農薬の開発方向は、人に対する毒性が弱く、残留性の低いものへと移行していきました(図3)。
また、近年は生物由来の農薬も開発され普及が進んでいます。




9.生産性の重視の成れの果てが利益重視の農業

発達する文明社会の中で、人口を養うために生じた増産の必要性は、個人が利益を蓄積する手段となっていきました。
貯蔵できる食物の量が大きな単位の社会を産むと、人々の中に生産性自体を「持つ」、または、「持たない」の格差が生まれ、ヒエラルキー(社会階級)が出現し、大きな力の差を生み出しました。

力を持つために生産性を上げ、あるいは生産を独り占めにすることによって手に入れた多くの生産物は「お金」にかわっていきます。お金は腐ることもなく、嵩(かさ)を極限まで小さくできる貯蔵物です。
増産されても生産物は、人口全員が豊かに食べることができる余裕を確保することよりも、誰か強い、個人の力の蓄積に使われるようになったのです。まさしく、そういう社会の中に私たちは今生きているわけです。

生産性を重視して使用される農薬や化学肥料は、今や、不自然に抽出・合成された人工的化学物質です。
自然環境を汚し、そこに住む人類全員の健やかな繁殖と自分の命を生きる幸せを奪っています。



資料:農薬や化学肥料が必要となる人為的環境(by山本朝子)

栄養価が高く品種改良を行った野菜という植物はすべて、昆虫や線虫、細菌たちにとっても高栄養である。
発酵していない有機肥料(腐敗のレベル)を使うと、腐敗を好む別の種類の昆虫や線虫、細菌も寄ってくる。
例えば、広大な畑でキャベツだけを栽培するなど、効率よく栽培・収穫・換金化できることを重視した「単一栽培(モノカルチャー)」では、天敵が入り乱れて調和を保っている野生の植生とは違い、一種類の害虫が繁殖しやすく、細菌感染による病気も発生しやすい。(これに対応するためにコンパニオンプランツという概念での「植え合わせ農法」も重視されるべきである)
1〜3のような理由で必要となる「人工的化学物質由来の農薬」は、害虫ばかりか、天敵となる昆虫も死なせてしまう。
農薬の多用により、土壌菌も死滅し、土は全く栄養分を保てなくなり、化学肥料を使わざるを得ない状況が生まれる。化学肥料の多投は、土壌の水分保持能力まで失わせ、やがて不毛の地となる。




10.これからの人類が向かうべき目標

もともと農耕は、自然を撹乱する要素をはらんでいたと既述しました。それならば、極力自然を傷つけないように生産性を上げる工夫すればよいのです。

日本では20世紀になってからようやく、『有機農業』がその価値を叫ばれ出しました。1971年に農協役員の一楽照雄(1906年 - 1994年)が、経済の領域を超えた大きな価値を有する、豊かな地力と多様な生態系に支えられた土壌から生み出されたあるべき農業のあり方を考案し、それを有機農業と呼んだことが始まりです。

科学用語としての有機は、有機化合物のことを示します。これは化学肥料が無機質だったことと対照的に、伝統的な肥料の多くが有機質だったことから、象徴的に有機という単語が用いられたのですが、したがって有機農業を省略して有機としてしまうと、科学的な意味が通じなくなる場合があるので注意が必要です。有機物を使えば、有機農業になるのではなく、自然の仕組みの中の有機=命あるものすべてを共存させる農業の形態を私たちは選ばなければなりません。

利益を優先させる農業の形態の中に、金銭の存在はあっても、有機の(命あるもの)存在は望めません。



11.最後に 「穀物が受けた人為的改良」

人々はその昔、自分が食べるため、家族が食べるため、仲間が食べるためにと最大限に努力して
「@たくさん、A間違いなく手堅く栽培でき、Bいざという時のために貯蔵できる作物」
を目指してきました。
特に、穀物は、Bには最適です。深く眠り、何世代も保存可能、水と光と酸素があればいつでも蘇ります。
また、穀物自体がいのちそのものですから、栄養に富んでいるのは言うまでもありません。
その上に加熱という加工手段を受け入れるにはピッタリ、熱損傷の少ない栄養源だったからです。
穀物はそれ故に、様々な人工的な『作り変え』と『特異な過栄養状態』に変貌していきました。

有るがままの自然を食べ尽くす狩猟採集生活とはかけ離れた食べものになった彼ら「穀物」は、現代社会では、過栄養提供者、人工毒の蓄積物として、食べないでおきましょうなどという不名誉なことまで言われるようになってしまいました。

物言わぬ植物たち、人間が生んだ穀類、人為的改良を静かに受け入れてきたものたちは、自然回帰、きっと懐かしいDNAがかすかに記憶する原始の姿に戻りたいと願っているような気がしてなりません。
有機農業はまさしく、その答えを知っていると思うのです。


posted by グレイニスト at 15:24| グルテンフリーの真実

2017年04月03日

Vol.4 粉(こな)にする過程も手段も変遷〜粉の挽き方、粒経揃え〜

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前号Vol.3では、穀物として最も古い起源を持ち、今も穀物の中で、全世界で最も生産量の多い「麦」を取り上げ、その「栽培の始まり」と「原種」についてお話ししました。麦はヒトによって栽培=作物化され、野生型から栽培型へと変わってきたのでした。
 今回は人類五千年の歴史の中で、ヒトは麦をどのように食べてきたか、その歴史から私たちは何を学ぶべきかを考察します。
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製粉の歴史


ヒトの主食である穀物の食べ方は、そのまま粒で食べる粒食(りゅうしょく)と、粉に挽いて食べる粉食(ふんしょく)に大別されます。
米は外皮(モミ)と内皮(ヌカ)が剥がしやすく、硬い胚乳部を取り出して煮るだけで食べられたので、主に粒食となりました。
一方、麦の外皮は厚く硬く、柔らかい胚乳部に密着していて、容易に分離できません。
そのため、麦は粒のまま砕いて粉にしてから皮を分離し、粉末の胚乳部を食べる粉食となりました。
 
野生の麦の粒をヒトが初めて口にしてから、現在の大規模化した製粉工場に至るまで、粉にする過程=製粉の歴史を詳しく解りやすく説いたHPがあります。
木下製粉株式会社(香川県)HPの「製粉の歴史」です。ご一読をおすすめします。
参考:http://www.flour.co.jp/history/history13.php

 麦の粒を口に入れ、歯で砕いて飲み込んでいた数千年を経て、紀元前三千年紀のエジプトで、穀物を2つの石の間で擦ったり叩いたりして粉砕するやり方を誰かが考えつきました。
それが最初の粉砕器・サドルストーンとなって何千年と続き、次にギリシャで上石に取っ手をつけ、下石を平らにしたスラブミルへと進化し、さらに粉砕面を傾斜させたプッシュミル、取っ手の片方を固定したレバーミル、円運動のアワーグラスミル、さらに効率的な円錐状のカーン(石臼の原型)へと進化したのが紀元前5世紀頃だそうです。

 動力は人力、馬や牛などの畜力、水力、風力へと進化しますが、粉砕部分は石臼のまま16世紀まで続きます。
円錐型ローラーを取り入れたラッメリ製粉機(1588年)、シリンダー型ローラーを設置したベックラー製粉機(1662年)を経て、現代のロール製粉機が発明されました。
速度差のある2つのロールで小麦を細かく挽き、それを細かくふるい分け、今では一粒の小麦を最終的に40種類前後の最終製品に採り分けるようになったのです。


製粉の“進化”の過程で失ったもの


このように、ヒトは人知を尽くして、より効率的に「粒を粉に」してきました。
しかし、グレイニズムの観点から、いのちの糧である穀物を考えると、製粉の“進化”の過程で失ってしまった「value=価値あるもの」もあるのです。
それらを4つに分類して、解き明かしていってみたいと思います。

まず、水を介する製粉が失われたこと。

はっきりした史料は残っていませんが、大昔、硬い穀物をすりつぶすには、少量の水分を介してつぶしたはずです。
挽く前に穀物に水をうって柔らかくする、その準備の中で、発芽モード(生命活動に必要な水分を自己給水し、発芽、発根活動にスイッチオンした状態)にもなっていたと推察します。

この推察は、狩猟採集時代から農耕に移行した日本の縄文時代などでも見られる、半栽培した栃の実やドングリを水にさらすことによって、えぐみ(動物が食べると阻害を被りかねないアブシジン酸や各種インヒビターのような自然毒などを含む)を緩和して食した食文化史が根拠です。
このドングリの例は、元々サルであった人類の祖先が、いわば、水によって食べものニッチを拡げる努力をしていたことを示しています。

次に、穀物を浸していた水分ごと食べる習慣が失われたこと。

現在の小麦粉を使ったパンは、たまたま、水で練られた小麦の粉が常在菌(天然酵母)によって発酵し、その菌が生命活動の証として作った気泡が、グルテンの「つなぎ効果」によってパン生地にすきまを残すことで、ふっくら、みずみずしく焼き上がったおかげで誕生しました。
それ以前は無発酵のパン、その前は外皮を除いた小麦粒を湯で煮た“おかゆ=ポーリッジ”が何千年も小麦の食べ方の主流でした。
さらに、もっと昔には口の中で穀粒を噛み、固い外皮を吐き出しながら、可食部分を唾液とともに胃に収めたという歴史もあったでしょう。

三つめに、粒の大小(粒経)が揃い過ぎ、細かくなり過ぎたこと。

製粉の“進化”の過程から見て、ヒトが生命の糧として食べてきた小麦の粉は、もともと粒経が不揃いで、粒の粗いものでした。私たちは、その粉の歴史のその原点も忘れています。

小麦は、捏ねると胚乳に多く含まれるタンパク質であるグリアジンとグルテニンがグルテンという粘り気を持つタンパク質に変化し、いろいろな食物と一緒に食べると、食品中の油脂やタンパク質とよく結合して、非常に水に溶けにくく、加水分解の一種である「消化」がなされにくいものになってしまいます。 

わかりやすい例を挙げると、良く捏ねて作ったべたべたしたドゥー(パン種)は、両手のひらや指の隙間にこびりつきがちです。
小麦粉パンを自分で作ったことのある人にはお分かりだと思います。
この厄介な「べたべた」は小麦の粉が細かければ細かいほど、指紋の隙間にまで入り込み、水で洗って取り除こうとしても無理です。
両手を擦り合わせて、まるで、垢(アカ)を擦り取るようにするしか取り除く方法はなくなってしまいます。
以前に、特殊な製法でナノレベルにまで粉砕した小麦粉でパンの生地を作った職人が、こねた生地が手に膜を作ったようにこびりつき、とうとう、包丁の刃でこそげ取るしかなかった現場に立ち会ったことがあります。
これが、消化器官内で起こったとしたら?考えただけでも恐ろしくなります。

水に溶けないから、消化できなくなる、この「難消化」は具体的には、タンパク質であるグルテンをアミノ酸にまで消化できずに、ペプチド(アミノ酸が結合したままのタンパク質よりは小さな分子)レベルのまま、腸管より吸収されてしまう可能性があることを意味します。
グルテンペプチドは、脳には麻薬様物質として誤認され、特に精神面での様々な不健康を引き起こすことがわかっています。

小麦を食べると体調が悪くなる人が出て、昨今「グルテンフリー」の食生活が注目されているのは、こういうところに原因の一つがあることを知っておいてほしいと思います。

最後に、4つめは、一物全体食から遠のいてしまったこと。

一粒の麦を細かく挽き、それを細かくふるい分けてブレンドする近代製粉は、外皮の部分をふすまと呼び排除し、一粒全体を食べる機会を失わせました。
いのちある穀物、蒔けば芽を出す穀物のいのちのエネルギーを丸ごといただく食文化から、ヒトは遠く離れてしまったようです。


今こそ、グレイニズムの提案


グレインズ・イニシアティブが広めつつある穀物の正しい食べ方は、上記のような現代の粉食文化へのアンチテーゼと言えるでしょう。

玄米・雑穀を充分に浸水して発芽モードにし、粒経が不揃いに粗くなるよう水中粉砕して、例えばパンを焼き上げる。この手法なら、製粉機なしでも穀粒を粉砕でき、穀粒を丸ごと食べることができます。
さらに言えば、穀物粉はいずれにせよ水分を加えてこねて加熱して食べるのですから、穀粒を水中粉砕し、それを加熱しても同じことなのです。
ヒトが手にした穀物食・加熱食の文明的な意義を踏まえ、粒食と粉食の“いいとこ取り”をした健康的な食べ方へ。私自身、さらに学びを深め、伝えていきたいと思います。

posted by グレイニスト at 10:25| グルテンフリーの真実

2017年01月19日

Vol.3 小麦の原種

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前号Vol.2では、作物化について、植物体への人為的な品種改良がどんな意図で、どのように行われていったのかを一般論として述べ、小麦の品種改良については、わかりやすく述べているサイトと三冊の本をご紹介するにとどめました。
今回は、グレインズ・イニシアティブとして、品種改良についての考え、そして、そもそもの「麦」の栽培の始まり、「麦」の原種についての見解をまとめておきます。
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品種改良は「緑の革命」により遺伝子組み換え操作へ、
「人類、策に溺れたり?」


自然のままに育っている植物を、ヒトの都合の良いように育てやすく、食べやすくする「作物化」。
農耕が始まった当初の作物化は、「どんなときにも家族や仲間が飢えずに食べるものがある」という恩恵を与えてくれるものでした。

しかし、ごく近年(ここたった50年ほどの間ですが)、この作物化、つまり、品種改良が過度に、しかも化学的に行われるようになったとき、“恵み”であるはずの作物は、突然、“不自然な食べもの”として牙をむき、人類の健康に大きなマイナスの影を落とし始めました。
特に、遺伝子組み換え技術は異種生物の間でも行われ始め、致命的なトラブルを作り出したのです。 
まさしく、「人類よ、策に溺れたり」というところです。

どのような遺伝子が選ばれて、次世代に受け継がれていくのか、それは本来、時の試練を経なければなりません。
しかし、遺伝子組み換え技術は、人類のここ数年で知り得た狭量な知識の中で「正しいはずだ」と推測したに過ぎないもので構成されています。

参考:http://gmo.luna-organic.org/?page_id=18
サルでもわかる遺伝子組み換えより  遺伝子組み換え基礎知識 

農学者ノーマン・ボーローグ(ノーベル賞受賞)による緑の革命(1940年代~1960年代)は、急激に増加する人口に対応するため多収穫の小麦=半矮性種の小麦(奇跡の麦)を誕生させ、これ以降、私たちが普段口にする小麦粉製品はほとんどが、この半矮性種、品種改良という名のもとに遺伝子操作された小麦となりました。
遺伝子組み換えという言葉が一般消費者に根付く前から、すでに小麦は遺伝子操作されてしまっていたのです。

参考:奇跡の麦
コムギや他の穀物では、多収になると穂の重さにより倒れ易くなる。ボーローグは小麦農林10号を親に用いて背の低い丈夫な麦を作った。
これが奇跡の麦である。
これにより、数億人もの食料危機に瀕している人々が救われたといわれている。
この後、米やその他の穀物の「奇跡の品種」がすぐ後に続き、世界の「緑の革命」の引き金となった。

ところが、奇跡の麦には元々の古代小麦にはなかった(もしくは少なかった)グリアジン(グルテンの前駆体)というたんぱく質が多量に含まれていたのです。
また、緑の革命とは、高収量品種の導入だけではなく、化学肥料の大量投入などにより穀物の生産を向上させ、人件費を低減し、穀物の大量増産の達成を目指す「農業革命」の一つにほかならないのですが、多投された化学肥料や農薬で農地は微生物の住めない不毛の地となっていきました。 

新しい品種の小麦は、地球環境を汚し、人に健康被害を及ぼす存在に成り果てていったことをしっかり理解しなければなりません。


麦(ムギ、バク)という表現

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麦(ムギ)とは、コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクなどの、外見の類似したイネ科穀物の総称で、このように多くの種類を総称した日本語の「ムギ」に相当する表現は、英語にはありません。

英語では、それぞれの種類によってbarley(大麦)、wheat(小麦)などと、全く違う語源を持つ単語として使い分けられます。
また、私たち日本人は、麦をイネと全く別の穀物と思いがちですが、「科」は同じなのですね。植物学上の分類は下記の通りです。一度じっくりとみて、理解を深めておきましょう。
(ウィキペディアより)

イネ科 ○イチゴツナギ亜科
・Bromeae 連
・スズメノチャヒキ属 - イヌムギ - 雑草
・Poeae 連
・カラスムギ属 - エンバク、カラスムギ
・ドクムギ属 - ドクムギ/ノゲナシドクムギ(Lolium temulentum)、ホソムギ(ペレニアルライグラス)、
 ネズミムギ(イタリアンライグラス)、アマドクムギ(Lolium remotum)、ボウムギ(Lolium rigidum)
 他 - 牧草、雑草
・Triticeae 連
・エギロプス属 - タルホコムギ、クサビコムギ 他
・オオムギ属 - オオムギ(二条オオムギ、四条オオムギ、六条オオムギ (en)、ハダカムギ)
・コムギ属 - パンコムギ、デュラムコムギ、スペルトコムギ、
 エンマコムギ/クラブコムギ (Triticum compactum) 他
・ライムギ属 - ライムギ
○キビ亜科
・Andropogoneae 連
・ジュズダマ属 - ハトムギ

備考:スぺルト小麦は英語名、ドイツ語名はディンケル、エンマコムギはドイツ名、イタリア名ではファッロ
麦の起源

〜〜〜野生型の種から栽培型へ〜〜〜

麦は、世界の中で一番多く栽培される穀物で、起源も最も古く、二万年程前にアフリカ大陸のエジプトで野生種が利用され始めたといわれています。(詳細後述)

野生型の植物は、穂が熟すると、穂軸が折れて、種子が地面に飛び散ります。
これは、子孫を繁栄させるためには非常に都合の良い性質です。
ところが、人間が「食べものとして種子を収穫する」場合、種子が地面に飛び散るような穂では収量が減ってしまいます。

そこで、人間は、野生型のなかに混じっている、自分たちに都合がよい「穂軸が折れにくい少数のもの」を好んで選び出しました。
その結果、穂軸が折れにくい種子ほど人間に食べられてしまうリスクが高まったわけですが、同時に、収穫されるチャンスが大きいので、収穫物のうちに折れにくい性質の種子の割合が増加していきます。
収穫した種子を人間が播いて、また収穫を繰り返す、すなわち、栽培が始まると、穂軸の折れにくいものがだんだん増加して、何代かたつと折れないものばかりになっていくわけです。

播種、収穫という人間の作業が行われる栽培条件では、野生状態では有利であった穂軸が折れやすいという性質はもはや必要なく、逆に不利になってしまいます。
コムギもこの例外ではなく、野生コムギの穂軸は折れやすいのに、栽培型の穂軸は折れません。一般に、穂軸が折れないことは、穀物の野生型から栽培型を区別する特徴となっています。

同様のことが、種子の発芽についてもみられます。野生の植物は多数の種子を作り、ばらまきます。
しかし、種子は一斉に発芽することなく、2年も3年もの間、時間をかけてぼつぼつ発芽します。
種子が生きているのに発芽しない性質を休眠性といいます。
一般に、生長する植物体は環境変化への抵抗力が弱く、非常に厳しい環境の下では枯れてしまうものですが、休眠中の種子は災害に耐える力が強いので、簡単に死滅しません。
不時の災害で植物体が全滅しても、予備軍(休眠中の種子)が土中に残っていて、環境が良くなったとき発芽し、生長して子孫を残すことができるわけです。

しかし、人に管理される栽培植物にとっては、予備軍はもはや必要ではないばかりか、一斉に発芽することが望ましいので、休眠性のない、あるいは休眠期間の短い個体が選択されていきます。
種子が一斉に発芽することも栽培型の特徴であり、麦も例外ではありません。
こうして、小麦という「種」の絶対多数は、野生型から、人為的に進化?させられながら栽培型へと変わっていきました。

〜〜〜麦の利用の始まりと麦の自生地〜〜〜〜

イスラエルのガリラヤ湖畔にあるオハローU遺跡の中の、今からおよそ2万1,000年前のものである住居跡(木の枝を組み、草を葺いたものであったと考えられている)から、多数の魚骨とともに、野菜のオオムギ、二粒系コムギ、ピスタチオ、オリーブその他イネ科を含む無数の小粒の種子などを発見されており、同時に発見された擦り石には、これらの種子の付着澱粉が検出されていました。
つまり、この時代、すでにこの場で、麦の栽培が開始され、食べものとして利用されていたと考えるべき根拠が示されているわけです。最終氷期の最寒冷期、現代の平均気温から4~6℃低かった2万年前の新石器時代にすでに、麦が利用されていたという事実は、いかに、人類と麦という植物の関係が深いかを物語っているとはおもいませんか? 
麦は体に悪い、いや、穀物自体が人の生理機能には不適合だ、そもそも植物食(炭水化物)をエネルギー源にすること自体が不適合な動物が人間だなどと、述べてはいけないでしょう。 
過去からの情報を正しく知り、それらから、ほんものの知識を得るということは、今生きている私たち人類の未来をより明るくするためには、非常に重要なことです。
(麦の自然史:丹野研一著 第4章より、山本まとめ)

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さて、野生の麦の原種の自生地ですが、半乾燥地域である西アジア、「肥沃な三角地帯」と呼ばれる地域という通説通りでほぼ間違いないでしょう。
「肥沃な三角地帯」とは、地中海東岸レヴァント地方(シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル)から北メソポタミア地方(東南トルコ、イラク、イラン)にかけての地方(上図)、現代では、民族間闘争、宗教対立の渦中であるこの地域こそ、三大食糧源の一つである「麦」が産声を上げたところなのです。


〜〜〜野生型から栽培型へ〜〜〜

しかし、最初の麦の栽培は、あくまでも野生型の利用であり、それも、コムギの原種、オオムギの原種、ライムギの原種などが区別されずにまかれていたようです。
この混栽が、多様な品種への進化を促進したのかもしれません。

下図を見ると、「野生型」より「栽培型」が定着、確立していったのは、約7,000年前であるという通説通りであるといってもよいでしょう。
「野生型」「栽培型」、コムギ、オオムギ、合い交じり合いながら、麦は自生地より、1万,8000~1万6,000年前にかけて拡散、次第にユーラシア大陸に移動していきました。

参考:野生 オオムギ
http://www.nias.affrc.go.jp/press/2015/20150729/


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〜〜〜栽培型の進化(コムギ属の進化)〜〜〜


ゲノム分析の結果、コムギ属では、異なるゲノムをもつ種が交雑して雑種が生じ、その雑種の染色体数が自然倍加することで、新しい種が誕生してきたことが分かっています。

まず、野生ヒトツブコムギとクサビコムギの間で雑種ができました。 
染色体数は倍加して、これが野生フタツブコムギです。
(野生フタツブコムギは、Aゲノムを野生ヒトツブコムギから、Bゲノムをクサビコムギから受け継いでいる)

野生フタツブコムギは、チグリス・ユーフラテス川の流域のいわゆる「肥沃な三日月」地帯で約1万年前に始まったムギ農耕で、野生ヒトツブコムギと混栽されるようになり、栽培型のヒトツブコムギとフタツブコムギが誕生します。
これらの初期の栽培コムギは、硬い殻でつつまれて、容易に脱穀できない型でしたが、いつの間にか、殻の柔らかい、マカロニコムギのようなものが突然変異で生じました。
パンコムギなどの普通系コムギは、栽培型のフタツブコムギとDゲノムをもつ野生二倍性種タルホコムギとの交雑によってできました。
栽培型のフタツブコムギにタルホコムギの花粉がかかって雑種ができ、その染色体数が倍加して生じたのです。
このため、普通系コムギには野生型がなく、最初にできた普通系コムギは固い殻に包まれたスペルトコムギでした。
その後、突然変異が起こって、殻の柔らかい現在のパンコムギになりました。

下記引用は、神戸大学 植物遺伝学研究室のHPより
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http://www.plantgenetics-kobeu.info/album/%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%88%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%a9%e3%83%aa%e3%83%bc%3a-%e7%a0%94%e7%a9%b6/fig1-jpg/



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